キックボクシングは、海外発祥のスポーツだと思われてる方が多いと思います。
でも、実は日本発祥なんです!しかもルーツは空手です。

ボクシングプロモーターの野口修と日本拳法空手道の創始者である山田辰雄が、ボクシングやムエタイ、空手などを参考に考案したのが発祥といわれています。

山田辰雄は直接打撃制による空手の試合化を目指しており、ムエタイに興味を示しました。
1962年(昭和37年)、山田辰雄は空手ボクシングを「第一回空手競技会」として後楽園ホールで開催。ノックアウト方式、体重別階級、グローブ着用などのルールを採用して行なわれました。

のちのキックボクシングやフルコンタクト空手に先駆ける画期的試みでした。
しかし寸止めルールを採用する当時の空手界からは黙殺。
新聞でも「ナグるケる木戸ご免」、「正統派?うたう空手競技会」などと酷評され挫折に終わりました。

一方、野口修は1962年(昭和37年)8月24日に後楽園ホールで開催された日本で二度目のムエタイ試合を観戦して感激。空手対ムエタイの興行の可能性を感じ、野口は極真会館(当時大山道場)の大山倍達と山田辰雄にこの構想を打診。

そして1963年(昭和38年)に、空手対ムエタイの交流戦がタイのバンコクで行われました。
大山道場から黒崎健時・中村忠・藤平昭雄が参加。
「日本から空手が殴り込みに来た」と大変な反響を巻き起こした。
結果は2勝1敗で大山道場勢が勝ち越し。
しかし、敗れた黒崎は打倒・ムエタイを誓い、1969年(昭和44年)に日本初のキックボクシングジム・目白ジムを創設。後に大沢昇・島三雄・藤原敏男らを輩出しました。

タイでの成功に自信をつけた野口修は、1966年(昭和41年)1月30日、キックボクシングの名称を考案して日本キックボクシング協会を設立。
その後、空手家やボクサーなど異なる武道・格闘技のバックボーンを持つ選手を集め、4月11日に大阪府立体育会館で初めての興行を開催しました。

しかし、直前になって突然大山倍達から「都合があり、どうしても選手を出せない」と辞退の連絡を受けた。
山田辰雄の道場の選手だけでは試合に足りないことに慌てた野口が、急遽出場を依頼した一人が後にキックの鬼で有名な日大芸術学部空手部・剛柔流空手出身の沢村忠でした。

キックボクシングは全国的なブームを巻き起こし、
沢村忠がエースの『YKKアワー キックボクシング中継』、
大沢昇がエースの『キックボクシング』『ゴールデン・キックボクシング』、
山崎照朝がエースの『ワールドキックボクシング』、
藤原敏男がエースの『キックボクシング中継』が毎週レギュラー放映するほどの人気にとなった。

極真会館も、極真ジムを立ち上げ山崎照朝・添野義二・及川宏ら選手を『ワールドキックボクシング』へ送り込んだ。

その後、キックボクシングの新団体の設立や団体の分裂などがあり、1993年(平成5年)に、正道会館の石井和義が、K-1を設立。
K-1は空手・ボクシング・ムエタイなど、多くの立ち技系格闘技の選手を招き、打撃系格闘技世界最強を決めると一大ブームを呼びとなりました。

当時は武蔵選手、魔裟斗選手、山本KID選手など数々のスターが出てきました。外国人選手もアンディーフグ選手、ピーターアーツ選手、アーネストホースト選手、などなど名前を挙げきれない程の選手が活躍。一時代を風靡しました。

しかし、K-1は倒産。
その後、運営が変わって新生K-1が復活。
新生K-1から武尊選手、RISEから那須川天心選手の登場でふただびキックボクシングブームに。
今年行われたTHE MATCHは普段キックボクシングを見ない層も巻き込み話題となりました。

キックボクシング界のアイコンの那須川天心選手はこの試合で引退してボクシングへ転向。
武尊選手選手もK-1との契約解除。
今後のキックボクシングは誰が引っ張っていくのかが注目されます。
次のキックボクシングのスターはあなたかもしれない!?

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