空手は、明治38年に沖縄県の学校で採用された教科であり、糸洲安恒によって改良され、体育としての側面を強調されました。彼は、唐手を基礎にピンアンの型を創作し、空手を現代の日本の武道として確立しました。
この記事では、空手が武術から体育へと変遷した歴史を紹介します。

空手は武術でなく体育?

空手は、明治38年に沖縄県首里市の男子中学および男子師範学校で採用された教科です。当時の空手は、「唐手(トゥディ)」と呼ばれ、戦闘技術としての側面が強く、琉球王朝時代から伝承されてきた琉球武術の一種でした。
しかし、糸洲安恒は唐手を学校教育の一環として普及させるため、技術や稽古方法を改良し、体育としての側面を強調するようにしました。
つまり、空手は古来の琉球武術でもなければ、中国武術、日本武術でもなかったのです。

空手の創始者 糸洲安恒とは?

糸洲安恒は、近代の空手を生み出した創始者です。
しかし創始者にもかかわらず本土の空手界では意外に知られていません。

糸洲は1850年代に20代の頃、最初に首里手の大家である松村宗棍に師事しました。当初、松村に好かれることができず、退席しました。その後、自分より一歳年上の那覇手の長浜筑登之親雲上(武士長浜)に師事するようになりました。

しかし、長浜が亡くなった後、長浜の遺言に従い再び松村宗棍に師事することになりました。糸洲が再び松村に師事したのは、35歳過ぎだったとされています。
糸洲は首里手だけでなく、泊手、那覇手など幅広く修行しました。また、糸洲は泊村に住む漂着人の禅南(チャンナン)からも武術を学んだという説もあります。

明治12年頃、糸洲は最初に自宅で唐手を教え始めました。
そして明治38年(1905年)、糸洲は県立第一中学校(現在の沖縄県立首里高等学校)および同師範学校の唐手教師の嘱託となり、生徒たちを指導しました。
唐手の学校教育の採用にも尽力し、唐手の体育化ならびに近代化を推し進めました。

この時、旧沖縄県立中学校、旧沖縄県立師範学校で教課の枠組みに取り入れられた空手(唐手)は、形の訓練を主体としました。
その型は14種で次のとおりです。

①ナイハンチ初段
②ナイハンチ二段
③ナイハンチ三段
④ピンアン初段
⑤ピンアン二段
⑥ピンアン三段
⑦ピンアン四段
⑧ピンアン五段
⑨パッサイ大
⑩パッサイ小
⑪クーシャンクー大
⑫クーシャンクー小
⑬チントウ
⑭五十四歩

糸洲はすぐれた研究家であり、ピンアン初~五段は糸洲の作でした。ピンアンは五段からなり、動作は主に公相君(クーサンクー)など旧来の型から借用して構成されたものと言われています。沖縄県の学校体育に採用されたことから、爆発的に広まり現在では首里手系各流派では基本型として採用されています。

その後、明治41年(1908年)には、唐手の心得を説いた『糸洲十訓(唐手心得十ヶ条)』を記載しました。

その後、大正2年(1913年)頃に病気にかかり、大正4年(1915年)3月11日、糸洲は85歳で亡くなりました。

糸洲十訓(唐手心得十ヶ條)

前文

空手は儒仏道より出たものではなく、その昔、中国より昭林流と昭霊流という二つの流派が、琉球(沖縄)に伝えられたものである。両派それぞれ特長があり、そのままの状態を大切に守りながら伝えていかなければなりません。そのために、心得の条文を行を改めて書き記します。

第一条

空手は個人としての体育を養成するだけではなく、いずれのときでも国、親に一大事が起きた場合は、自分の命をも惜しむことなく、正義と勇気とを持って、身を犠牲にしてでもつくし、一人の敵と戦うのが主旨ではなく、万一暴漢や盗人に会ったときでも、なるべく拳足を使って傷つけないように心掛けること。

第二条

空手は専一に筋骨を強くし、体を鉄石の如く固め、また手足を鎗鋒に代用するものなれば、自然と勇武の気持ちを発揮させる。ついては小学校時代より練習させれば、他日兵士になった時他の諸芸に応用する便利があり、将来、軍人社会での精神面と術技面への何かしらの助けになると考えます。最も、英国のウエリントン候が、ベルギーのワーテルローでナポレオン一世に大勝した時にいいました。「今日の戦勝は、我が国の各学校のグラウンド及びその他の施設で広く体育の教育をやった成果である」と。実に格言というべきでしょうか。

第三条

空手は急速には熟練するものでなく、「牛の歩みは遅いが終いには千里以上に達する」との格言の如く、毎日一時間か二時間くらい一生懸命に練習すれば三、四年の間には一般の人と骨格が異なり空手の蘊奥を極める者が数多く出てくると思う。

第四条

空手は挙足を主体とするものであるから、常に巻藁にて充分鍛え、肩を下げ、胸を開き、強く力をとり、また足も強く踏みつけ、丹田に気を沈めて練習すること。その突く回数も片手に百回から二百回は突くこと。

第五条

空手の立ち様は腰を真直ぐに立て、肩を下げ、力を抜き、足に力を入れて立ち、丹田に気を沈め、上半身と下半身の力を引き合わせるように凝り堅めることが大切である。

第六条

空手の技は数多く練習し、一つ一つの技の意味を理解し、これはいかなる場合に使うベきかを確かめて練習すること。また入れ(突き)、受け、はずし、取り手の法があるが、それは秘伝になっておりますので、多くは師が弟子に対して口で伝えるようになっております。

第七条

空手の技は、これが「体」(基本鍛錬)を養うのに適しているか、また「用」即ち実用(応用技)を養うに適するかを予め目的と方法を確定して練習すること。

第八条

空手の練習をする時には実戦と同じ気迫で目をいからし、肩を下げ、体を固め、また受けたり突いたりする時も現実に敵の攻撃を受け、敵に突き当てる気勢で常々練習すれば、自然とその成果が現れるものであるので、くれぐれも注意のこと。

第九条

空手の練習は体力不相応に余り力を入れすぎると、上部に気が上がり、顔を赤め、また眼を赤め、身体の害になるからくれぐれも注意のこと。

第十条

空手熟練の人は昔より長寿の者が多い。その原因を探ると筋骨を発達せしめ、消化器を助け、血液循環をよくし、長寿の人が多い。ついては自分以後、空手は体育の土台として小学校時代より学課に編入し、広く練習させれば、将来、一人で十人の相手にも勝てるほどに優れたが人材が多く出てくると思う。

後文

右十ケ条の旨意を以って、師範中学校において練習させ、将来師範中学校を卒業し、各地方小学校で教鞭をとる際には細かく指示し各地方小学校において正確に指導させれば、十年以内には全国一般に広がり、沖縄県民だけのためでなく、軍人社会の一助にもなるものと考え、お目にかけるために筆記しておくものである。

1908(明治41)年10月 糸洲安恒

唐手から空手へ

空手は、古来の琉球武術や中国武術、日本武術とは異なり、糸洲安恒によって新しい日本の武道として考案されました。糸洲は、唐手を基礎としながら、ピンアンと糸洲十訓を創作することで、現代の空手を発展させました。彼は、心技体をバランスよく育むために、体育の一面、沖縄や中国武術の技、そして日本の武士道の心を取り入れ、独自のスタイルを完成させました。

まとめ

空手は、糸洲安恒によって新しい日本の武道として考案され、現代に至るまで発展してきました。糸洲は、ピンアンの型を創作し、空手の普及に尽力することで、空手を世界中に広めることに成功しました。彼の功績は現代の空手においても色濃く残っており、彼なくして現代の空手はありえないと言っても過言ではありません。